君は誰?


誰だか分からない


君は誰?
私は誰?


嘘だ
本当は知ってる










Beautiful dreamer    6










空には厚い雲が掛かり、月の光を遮断していた。
少し遠くなるとまるで何が有るか分からないほどの闇だった。


……。」
「やっぱり来たんだね、。」


闇の中に沈むその髪と瞳は漆黒で、闇よりも闇らしくそこに鎮座していた。
鮮やかな紅の衣は闇に沈んでいたが、やはり品格が保たれている。
英雄と謳われ祝宴の真ん中に居たはずの彼は、宴の途中に突如姿を消したといわれている。



そして今、彼は私の目の前にいる。



……。」


初めて出会った時と変わらぬ姿のその人の名を呼ぶ。
つい最近知ったその名は、私が敵として恨んでいた人の名だった。

その事が私を苛(さいな)んでいたのは事実だ。
そして彼の誘いに乗る為にここに赴いたのも事実。
誘いに乗ったことが彼を傷付けているであろう事もまた事実。

この事実の積み重ねが、私たちの別れへと導いている事は明白だ。


「忘れたいんだね?」
「……。」
「今君がここに来たのはその為だろう?」


何も答えない私の沈黙を肯定として捉えたのか、彼は立ち上がった。
かさり、と草を踏む音がして彼の気配が近づく。

突如吹いた風で厚い雲に僅かな隙間が出来る。
雲から顔を覗かせた月は猫の爪の様に細く、しかし明るく輝いていた。

もとより表情は見えていなかったが、逆光となってしまったので尚見えなかった。


「そんな顔はしないでくれ。すぐに君は平穏な日々へと帰れるから。」


そう呟いて、私の額に手を当てた。
想像していたよりも冷たかった指にゆっくりと瞳を閉じる。
自然に落ちてきた瞼は、睡魔に襲われた時の様に自分の意思に従わず、開く事は叶わない。


「君は忘れなくてはいけない。」


その言葉には不思議な力が籠っているのか、まるで抵抗できない。
意識ははっきりしているのに、どうする事も出来ない。


「全て忘れなくてはいけない。僕のことを。君の気持ちを。」
「如何して?」


自分の声が鮮明に響いた。
額に当たっている手が微かに動揺し、彼は沈黙する。
無音の空間が広がる中で彼は必死に考えているのだろう。

そして彼は答えを用意した。


「夢、だから。」
「ゆ、め?」
「そう。夢、だ。」


今宵一夜の夢。
目が醒めてしまえば全て幻。

そういう答えを用意したのは、恐らく私を諦めさせる為。

彼はきっと少し困ったような顔をして、それでいて哀しそうに笑っているのだろう。
表情まで想像出来るほどに近づいたのに、今はこんなにも心が遠い。


「君は目覚めるとベッドの中。君のお兄さんが朝ごはんを作りながら、早く起きろと君に声をかける。いつもと同じ朝だ。」
「うん。」


徐々に催眠状態に陥っていく魔法なのか、本格的に自分の意思で行動できない。

眠りに落ちていくあの瞬間のようにゆっくりと落ちていく。
彼の声に頷いているのもほぼ無意識で、一言一言を聞く度に世界が不鮮明になっていく。

それでも彼を見失うまいと、必死に現実に縋る。


「君は外気の寒さから逃れようと毛布により深く埋まる。いつも通り君のお兄さんは君を起こしに部屋に来る。毛布を奪われた君は強制的に覚醒させられるんだ。」
「うん。」
「そして……。」


もう何も判らなくなった頭に、沈黙する彼の姿が思い浮かぶ。
気まずいであろう沈黙を、気まずいと判断できないというのに、彼の辛そうな姿だけが脳裏に浮かび、消えた。



彼はここに来て迷っている。



曖昧な思考回路でそう判断したが、その考えもまた消え去る。
考える事が泣くなり空になった頭に、嫌にはっきりと彼の声が響いた。



「僕は居ない。」



その言葉を聞いた途端、精神が悲鳴を上げた。

眠りに落ちる瞬間のため息を付きたくなるような安心感はなく、そこにはただ、闇に堕ちる感触がした。

自らの存在を否定する事で私を守ろうとした彼。
形振り構わず、己を省みない行為。

しかしそれを裏切るように、私の心は動いた。
私は私自身の心と想いを護る為だけの行動に出た。





私は私を護る為
彼の努力を無にし



私の記憶を私の心の奥底に閉じ込めた










next





あとがき+++

過去編ラストです。
なので、残りは現在編数ページでしょう

たぶん、きっと、おそらく(笑)


毎度の事ながら、長々と続いてしまう模様です(苦笑)


by碧種


06.05.06