想像していたより細い首に手をかける
手をかけた瞬間胸に痛みが走った
このまま
一思いに殺せたなら……
スコール −I'll set you free.−
あの女は何時もそこに居た。
お忍びと言う程ではないが、部下も誰も連れずにひっそりと通う酒場。
名も無いそこには訳有りの人間ばかりが集い語らうあの場所。
人目を引く外見とその表情の冷たさが印象的な女だった。
年齢は俺より少し下だったと思うが、遠慮無しに話す態度が気に入っていた。
しかもあの女は俺の正体に気付いているはずだ。
そして何より、微かに血の臭いを漂わせながらもソレを感じさせない態度はなかなかそそる。
安く甘い酒を好むその女の名は、それが本名かどうかは怪しいが、といった。
男ばかりでむさ苦しい酒場に入ると、カウンターの一席には女が座っている。
城にいる女たちほどの華やかさは無いが、近寄りがたい美しさだ。
それでも躊躇わずに近寄り声を掛ける。
「おい。」
「久しぶりだね、ルカ。」
泥酔とまでは言わないが酒が回ってきている様子の女は、グラス片手に振り返ると笑った。
その笑い方はどこか乾いていて、今までとの違いに嫌な感じがした。
けれど何も感じなかった振りをして距離を縮める。
「こんな所に来るなんて、随分と余裕じゃない。」
「何のことだ?」
笑い返してやると、女は更に笑みを深くした。
仕舞いには口元に手を宛てて喉の奥で小さく笑う。
媚びる様でいて結局は相手を突き放す、危険な笑みだ。
この誤魔化しに気付かず近づいた男は、どうなるだろうか?
昨日の争いは何と言うことも無く終わった。
今日戻ってきたばかりではあるが、血生臭さ以外に何の問題も無い。
余裕も何も至って普通の行動として酒場まで来ただけだ。
何もなかったかの様に、空いていた女の隣の席に身体を滑り込ませる。
はその俺の仕草を焼き付けるかのように目で追っていた。
それに気付かない風を装ってマスターを呼ぶ。
「こいつと同じものを。」
いつもこいつがいる時は同じものを頼むとマスターも分かっている。
俺が声に出す前に既に準備してあったらしく、すぐに同じグラスに同じ酒が注がれる。
その瞬間から漂ってきた、この女らしくない酒の匂い。
思わず眉を顰めそうになるがそれを堪えて一口だけ酒を含む。
その酒はやはり甘くなく、むしろ苦過ぎるくらいの高い酒だった。
何を言おうと思ったわけでもなくチラリと見ると、視線がぶつかる。
暫くその視線に捕らえられる感覚を楽しんでから口を開いた。
「いつもと違うな。」
「何が?」
「……酒の種類が。」
呟くだけ呟いて、もう一度酒を煽る。
それは城で出る程ではないが、庶民が嗜好品として飲むには高すぎる酒。
こんな風に勢いで飲むようなものではない。
それが分かっていながらも喉を鳴らして飲む。
一気に飲むのに気が引けたわけではないが、一度口を離した。
女の視線が痛いからではない。
隣で次々と杯を重ねる女が気になるからではない。
ましてや、がこういった類の酒を飲む理由に心を痛めたからではない。
その様な感情を俺が持ち合わせているわけがない。
「そろそろやめとけ。」
普段飲まない酒を、しかも大量に飲み続けて酔った女のグラスに手を被せた。
女は酒に酔って潤っている瞳に不満の表情を乗せて俺を見る。
「なんでぇ?」
酒の所為で呂律が回っていない。
充血して涙ぐんだ瞳は思考力の低下を表している。
待ったを掛けたグラスをカウンターに置き、ため息混じりに言った。
「それ以上飲む必要はないだろ。」
そう言い放ち、女の腕を取る。
当然の如く二人分のお代を払って、そのまま夜道へ出た。
全く抵抗する様子もなく女は付いてくる。
「どこ行くの?」
抵抗らしい抵抗も見せずに、掛けられただけの言葉に振り返る。
呆れたことに、この女は俺の足の向かう先さえ分かっていなかった。
「帰る気はねぇのか?」
いつもそうだ。
俺が手を引くと抵抗もせず付いてくる。
それで俺を疑うでもなく、酔った姿を晒す。
再び歩き始めると共に、女を寄り近くに引き寄せる。
半ば寄りかかられているが、女が細すぎる所為か、俺の行動に支障を来たさない。
女も俺も歩いている間はずっと無言だった。
それは女が話し掛けない上に、俺が話すのを好まないからだ。
それは一種の分かち合いだった。
一歩一歩別れる場所に近づいていく。
足取りは女に合わせている所為か、変わることはない。
ただ進むだけ。
「着いたぞ。」
普段と違う空気を纏う女を気にするでもなく、普段通りに振舞う。
女が殆ど意識を手放しかけているのは分かっていた。
足を進める度に揺れる肢体からは何の意識も感じ取れなかった。
だから屹度、普段通りに終われると思っていた。
―――瞬間。
コマ送りの世界の中で、刃が閃(ひらめ)いた。
の自由になっていた腕が俺の得物を掴み、首目掛けて近づいてくる。
咄嗟に支えていた手で女を引き寄せた。
狙いを失った手を空いた手で捕らえる。
一瞬にして起きた出来事に、意外と冷静な俺がいた。
「どういうつもりだ、。」
「っ!!」
今まで対峙してきた敵と同じく、女を見据える。
頼むから嘘だと言ってくれ、と心から願う。
狂人と呼ばれた己からは予測も出来ないほど冴え渡った頭で、考える。
如何してこうなったか。
如何なってしまうのか。
如何するべきなのか。
如何しても答えが一つしか見つからない。
コイツの血が見たい訳でもないのに……。
「答えろ。」
意識せずとも、相手を威嚇する低音で脅す。
己の中の葛藤など微塵も表には出ないのだろう。
全ての感情を押さえ込んだ状態で、手の力だけが自然と入ってしまう。
露出した肌に冷たい物が触れる。
そして、冷たい雨が降り始める。
全ての感情を洗い流すような多量の雨。
「依頼よ。」
澄んだ声が耳に届く。
いっそ雨に掻き消されれば良かった。
酒が回っているにしてははっきりとした言葉だった。
引きつった表情で、其れでも冷酷なまでの言葉を伝える女。
職業柄、こういった事態になることは予測できていた。
しかし……。
「それだけか?」
「ええ。そうよ。」
この状況下で動じない自分が怖い。
ウソだと言って欲しい。
今、自分自身に変化があるとしたら、せいぜい表情が歪んでいる位なのではないだろうか?
いっそ射殺すぐらい強い視線で、黙らせる事が出来たら楽だろう。
しかし今出来るのは、冷静なふりをした声で相手の意思を確かめる事だけだ。
「これがどういう事か解っているのか?」
「もちろん。」
自分の命を懸けてまで襲い掛かってくる奴ら。
奴らの迎える最期は、みな同じ。
「殺されても文句なんて言えない。私の落ち度だ。」
その言の葉、一つ一つが尖っていて、俺を傷つける。
言葉を放つ女の瞳が死んでいることを差し引いても、傷付かずにはいられない。
何一つ、嘘はないのだろう。
それが解っていても聞きたくなってしまうのは何故(なにゆえ)か……。
愛故などとは思いたくない。
「そうか……。」
出来る限り声を荒げずに、淡々と告げる。
雨に濡れて冷え切っているのか、激情で温まっているのかすら判らない。
理性だけで動かした手が緩やかに細い首を目指す。
「残念だ。」
理性だけで行動した。
冷たい雨に冷え切った首筋に触れた。
想像していたより細い首に手をかける。
手をかけた瞬間胸に痛みが走った。
このまま。
一思いに殺せたなら……。
どれほど楽なのだろうか。
瞳を閉じた顔を見つめる。
細い首に力を込めながらも、躊躇っている自分がいる。
本当に殺してしまえるのか?
少しずつ力を失っていく女に同情するわけでもないというのに……。
暫らくして、思わず手の力を緩める。
目を開いた女の戸惑った表情が視界に入る。
己の内にあった葛藤も、一瞬にして消え去った。
「な、ん……で?」
如何して殺さなかったのか?
其の問い掛けへの答えを、俺は持ち合わせていなかった。
只、目の前で陽炎のように揺らめく命を消し去ることが出来なかった。
指先が、雨で濡れている首筋を滑り降りて、離れる。
冷たかった温度から離れて、己が内に燻る熱に気付かされる。
「ル、カ……。」
掠れた声が呼びかける。
其の姿を見ている事に耐えかねて背を向けた。
無防備に晒した背中を、いっそ其の手で切り裂いてくれ、とさえ思う。
しかし其れは、叶わぬ夢。
「次は殺す。」
低く響いた声が、痛々しい響きを含んでいた気がした。
そんなことはないと否定する為に、踵を返す。
真実は、と訊ねられなかった。
如何してだ、とも言えなかった。
感じ始めていた思いの欠片も伝えなかった。
何も出来なかったのが事実。
けれど、行動を起こさなかったというのが真実。
誰にも邪魔されない、自室と呼ぶには質素な兵舎に一人。
夕日の色を血の色に重ねる。
誰のものも、あれと同じ色なのだろう。
そして不意に思い出した名を言葉にする。
「……、愛してた……。」
無意識に出たのが本音なのだろう。
もはや伝えることは出来ないけれど……。
あとがき+++
ルカ様続編です。
もともと、2話で一つのつもりで書き始めたのですが、如何せん1話目が長くてもう一つ書く気に慣れませんでした(苦笑)
よくもまぁ、ここまで長くなったもんだ、と。
今回はルカ様の方に焦点を当てたのですが、思うとおりに動いてくれませんね(笑)
勝手に喋ろうとするし、勝手に行動を起こそうとするし……。
話変わっちゃいますから!!
何はともあれ、ルカ様に幸あれ♪
by碧種
07.07.23